レジー・ルイスの死の解説:1993年のセルティックススターの悲劇的な死を振り返る

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ボストンのTDガーデンの天井には、セルティックスやブルーインズのフランチャイズに忘れられない影響を与えた選手たちの背番号が並んでいる。その中でも特に目を引くのが、悲劇のせいで実力を発揮できなかったにもかかわらず、多大な影響を与えた選手の背番号である。

1995年、セルティックスはレジー・ルイスの死を悼み、彼のトレードマークである背番号35を永久欠番とした。1987年のNBAドラフトで22位指名されたルイスは、最後のNBA試合に出場してから2か月も経たないうちに亡くなった。享年27歳だった。

今回はルイスの死とその悲劇の原因を振り返りたい。

レジー・ルイスに何が起こったのか?

マサチューセッツ州ウォルサムのブランダイス大学でオフシーズンの練習を終えた後、ルイスはバスケットボールのコート上で突然心臓発作を起こして死亡した。医師たちは彼を蘇生させようと試みるも失敗に終わったのだ。

結果、ルイスは1993年7月27日に他界してしまった。

ルイスは亡くなる2カ月弱前、セルティックス対ホーネッツのプレーオフ1回戦第1戦に出場していた。試合中、ルイスはコート上で倒れ込み、地面に倒れたのち起き上がったが、明らかに混乱していた。ルイスは一時的にプレーに復帰したが、その後出場停止となり、NBA最後の試合を13分間で17得点で終えた。

事件後、ルイスはボストン地域の病院に入院し、一連の心臓検査を受けた。彼は局所性心筋症と診断され、この症状が選手生命を脅かす可能性があると告げられた。

セカンドオピニオンを受けた結果、ルイスは神経心臓性失神と診断されたが、症状はそれほど深刻ではなく、来シーズンにはコートに戻ることができるだろうとの診断を受けた。

レジー・ルイスの死因

ルイスの死因は肥大型心筋症とされ、「心筋が厚くなり、肥大化する病気」と定義されている。

心筋が厚くなるため、心臓が血液を送り出すのが難しくなることがあるのだ。

アメリカ心臓協会は、肥大型心筋症を若いアスリートの突然心臓死の主な原因として挙げている。突然心臓死は黒人アスリートに多く見られ、アメリカンフットボールやバスケットボールなどのスポーツで発生している。

ウォール・ストリート・ジャーナル紙がルイスの死因はコカイン使用の疑いがあると報じたため、ルイスの死因をめぐっては論争があった。これに対しセルティックスは同紙を相手に1億ドルの損害損害を求めて訴訟を起こすと警告している。

結局、ルイスの検死では、コカインの使用と一致する心臓の傷跡は発見されなかった。

メイヨークリニックによると、ルイスの検死結果では、さまざまな風邪やインフルエンザのような感染症を引き起こす可能性があるアデノウイルスの検査で、ルイスの心臓組織が陽性反応を示した。

レジー・ルイスのNBA統計

ボルチモア出身のルイスは、ボストンのノースイースタン大学で大学バスケットボールをプレーした。ルイスがすでに4年間をボストンで過ごしていたため、セルティックスが1987年に全体22位でルイスを指名するという決定はスムーズな移行だった。

ルイスはルーキーとして、1988年のイースタンカンファレンス決勝で敗退したセルティックスでロールプレイヤーとして活躍した。彼はNBA2年目に大きな飛躍を遂げ、多くの人から1991-92年のNBAシーズン後に引退したラリー・バードの後継者とみなされた。

ルイスはバードの最後のシーズンにNBAオールスターに選出された。バード退任後のボストンの1年目、チームは48勝を挙げ、東地区第4シードでシーズンを終えた。ルイスの不在により、ボストンは第1ラウンドシリーズを4試合で敗退している。

以下は彼のキャリアでの記録となる。

レギュラーシーズン

シーズン試合数得点リバウンドアシスト
1987-88494.51.30.5
1988-898118.54.72.7
1989-907917.04.42.8
1990-917918.75.22.5
1991-928220.84.82.3
1992-938020.84.33.7
合計45017.64.32.6

プレーオフ

シーズン試合数得点リバウンドアシスト
1988122.41.30.3
1989320.37.03.7
1990520.25.04.4
19911122.46.22.9
19921028.04.33.9
1993117.02.01.0
合計4217.54.22.6

引用元:The Sporting News

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